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読書

2008年12月25日 (木)

クリスマスの手紙 「百万長者対貧乏作家」

二十二章: 百万長者対貧乏作家 アプトン・シンクレア 真鍮の貞操切符』

本書の主張は、アメリカの新聞は、公共の利益ではなく、私益を代表し、人間性ではなく、財産を代表するものであるということにある。アメリカの新聞は、人をその人物の偉大さ、善良さ、賢さ、または有用さではなく、豊かであるとか、既得の富に対し貢献をしているということで評価するのだ。そして、この主張を試験してみたいと考えたと仮定しよう。極めて科学的な性格の試験をするとしたら、一体どうすれば良いだろう? 財産を代表する一人の人物と、人間性を代表するもう一人という、二人の人物を設定しよう。他の全ての要素を厳密に排除するよう、努力する必要がある。財産を代表する人物は、人間性を除外されており、もう一人の人間性を代表する人物は、財産が除外されているわけだ。この二人の人物を公衆の前に並べ、二人にできるだけ同じ様なことをさせ、新聞に現れる結果を記録するのだ。この結果、財産を代表する人物と人間性を代表する人物の、各新聞に対する相対的重要度が、数学的にインチで示される。そのような正確で科学的な試験を、ここに記録する。

二人の人物をご紹介しよう。一人目は、人間性を代表する人物だ。この試験が行われた時点、1913年12月で、彼は35歳だった。彼はアメリカ合州国全土で有名だったし、また、おそらくジャック・ロンドンを除いて、世界で最も有名な現役アメリカ作家だった。試験の時点で、彼は200ドルしか持っていなかった。

二人目は、財産を代表する人物だ。彼は当時22歳で、四つのことをなし遂げて、広く喧伝されていた。第一に、誕生したこと。第二に、農業上いくつかの実験をすると決心したこと。第三に、知り合いの若い女性と結婚すると決めたこと。第四に、彼が6500万ドルを相続したこと。これらのうち三つは、決して稀なことではない。多くの百姓の息子でさえそんなことはやっているが、新聞は彼らに対して紙面をさくような特別待遇はしない。しかし、最後の一つは実に類まれなことだ。アメリカの歴史始まって以来、6500万ドルを相続した人物など、これまでいなかった。従って、この若者の名声は財産によるものであり、財産以外の何ものでもないことは明白で、議論の余地はないだろう。彼は、社会科学者が実験に必要とするであろうような完璧な見本、生粋の財産人だ。

そこで、この二人の人物の行動を検討しよう。世界資本主義の偉大な機関の一つである「ニューヨーク・タイムズ」は、同社の実際の機能を隠蔽するのに、コンスタンティヌス皇帝に売り渡されて以来、キリスト教会が用いている慈善という古くからの手段に依存しているようだ。毎年十二月始めに「タイムズ」は「最も困窮した百家族」と呼ぶリストを公開し、窮地にある百家族のために募金をつのる。"タイムズ"は、こうした痛ましい家族を生み出す社会制度という問題には、決して立ち入らず、また誰にもこの疑問には立ち入らせない。タイムズは、この制度の犠牲者である百家族に、翌年の12月まで生き長らえるのに十分な金を寄贈し、彼らが再びリストに選ばれる競争に参加できるようして、彼らの窮状を食い物にしているのだ。

これに加え、「タイムズ」は、多様な読者を楽しませるため、毎日曜に写真画報の付録を発行している。日曜日に「最も困窮した百家族」を掲載した際、たまたま同紙は、若きヴィンセント・アスター氏が郷里の私有地に百万ドルの経費で建設中の「レクリエーション館」の写真も載せた。この建物はアスター氏と友人たちが使うためのものだった。公衆にあてる部分は皆無だ。テニスと水泳と体操専用の建物だった。文学、音楽、美術、科学、あるいは宗教のための場所は皆無なのだ。典型的な私有財産制度の産物だった。そこで、人間性を代表する男性は机に向かい「クリスマスの手紙」を百万長者あてに書いた。それは実質的に、何百万人もの同胞が飢えているというあからさまな事実を目にしながら、一体どうしてクリスマスを楽しみ、百万ドルの「レクリエーション館」でスポーツを楽しむことができるのかと彼に問うものだった。この手紙は表現にとみ、面白く、良く書かれていた。ニュースとして、この手紙はあらゆる点で「生き生きした」ものだった。

そこで、第一の試験となった。このヴィンセント・アスター宛の「クリスマスの手紙」は同日中にニューヨーク市のあらゆる新聞の「都市版編集者」宛に速達郵便で送られた。手紙は、朝刊紙と夕刊紙の両方に送られた。一体何紙が掲載しただろう? わずか一紙、ニューヨークの「コール」、社会主義者の新聞だけだ。ニューヨークの朝刊紙も夕刊紙も、他の新聞はいずれも一行たりとも掲載せず、またいかなる形で言及することもなかった。手紙はアメリカのあらゆる大手通信社に提供されていた。で一体何社が扱っただろう? 一社とてない。ニューヨーク以外では、たまたま著者の個人的な友人が編集しているシカゴの新聞「アピール・トゥ・リーズン」が掲載した。かくして、ニューヨークの資本主義ジャーナリズムによる最初の判決が出たわけだ。人間性を代表する人物が書いた手紙は報道価値が、まさに0でしかなかったのだ。

百万長者が新聞編集者たちの判断に同意しなかったという事実がなければ、そこまでで事が終わった可能性も、試験が完了しなかった可能性もあった。百万長者は著者の手紙を重要と考え、それに答えたのだ。

一体どうしてこうなったか私には全くわからない。百万長者の良心に触れたのかもしれない。正真正銘の財産の人以上のひとかどの人物になりたいという大志を抱いたのかも知れない。彼自身が答えを書いたのかも知れない。誰か顧問弁護士が書いたのかも知れない。彼の秘書あるいは他の従業員が書いたのかもしれない--私が知っているのは、二三週間後に百万長者が著者に返事を書き、同時にその手紙を新聞社に送ったのだ。

著者の手紙は、もちろん資本主義に対する攻撃だった。百万長者はそれを擁護する側だ。そこで第二の試験となった。あらゆるニューヨークの新聞が、百万長者から著者への手紙を掲載する機会を与えられたのだ。そして一体何紙がその機会を活用しただろう? 全紙、全ての新聞だ! 全紙がその手紙を掲載した。しかも全文を掲載したのだ! 大半の新聞は百万長者の写真入りで一面に載せた。何紙かは、それに関するインタビューのコラムや、それについて論じる社説を加えた。財産を代表する人物の報道価値に対するニューヨークの各新聞による評価は、まさに100パーセントだった!

いかなる社会科学者にとっても、上記だけで十分だろう。しかし試験は、たまたま更にもう一歩進められることになった。百万長者と比較して、著者は取るに足らないものだという事実によって、著者が完璧にめげてしまったわけではない。私は社会主義者で、社会主義者は、容易には黙らせることができないことが良く知られている。著者は百万長者の主張に答え、百万長者宛に二通目の手紙を送った。そして著者は、またもや、ニューヨークのあらゆる新聞社とあらゆる通信社に送った。百万長者の主張を丸ごと掲載した同じ各社に。そこで、何紙が掲載しただろう? 一体何紙が手紙の全文を掲載しただろう? 一紙のみ、社会主義者の新聞「コール」紙だけだ。一体何紙がその一部を掲載しただろう? そして、掲載した一部分の長さはどれほどだったのだろう? 調べてみよう。

著者の最初の手紙は、新聞の行数で63インチの長さだった。百万長者の回答は19インチで、著者のそれに対する回答は61インチ分だった。もしも、著者は正当な分量以上のものを要求をしていると非難されるのであれば、著者は既存体制を批判しているのであり、それは僅か数行ではなしえないと指摘せざるをえない。その一方、はなはだ愚鈍な人物すら、「あなたには同意しない」と答えることは可能で、しかも簡潔さという美徳を主張できる。また、ここでの問題は、著者が主張したことではなく、それがどれだけ掲載されたのかであることに留意いただきたい。下記は、ニューヨークの主要朝刊紙に、記事がどれ程の長さで掲載されたかを示す表だ。

      著者 百万長者 著者

タイムズ   0   19   0

ヘラルド   0   19   0

プレス    0   19   0

トリビューン 0   19   0

アメリカン  0   19    2

ワールド   0   19      2-1/4

サン            0     19      4-1/2

コール         63    19      61

上記は、見出しについて考慮していない点、留意が必要だ。百万長者用見出しは大きかったが、著者の見出しは小さかった。表は、論説、インタビューや写真、第一面という有利な条件も配慮していない。

数値の重みをより明らかにすべく、パーセンテージで表示しよう。各紙が著者から受け取った原稿は124インチで、百万長者の原稿は19インチであった。まず「タイムズ」から始めよう。この新聞は百万長者の原稿をすべて掲載し、更に自社で調べたいくつかの追加まで載せていた。著者の記事は一切掲載しなかった。そこで、数学的に言えば、「タイムズ」紙は、百万長者と比較して、著者のことを全く無価値と考えていることがわかる。全く同じことが「ヘラルド」、「プレス」および「トリビューン」紙にもあてはまる。「ワールド」は、百万長者のものは100パーセント掲載したが、著者のものは2パーセント以下しか載せず、従って百万長者に50倍以上の便宜をはかっていた。同様に、「アメリカン」紙は60対1の比で彼を優遇した。「コール」紙だけは二人を平等に扱った。つまり「コール」紙は記事を掲載したのだ。

このささやかなエピソードに関する報告を、たまたま人間性の人にして、また財産の人でもあった中国の賢明な老紳士、李鴻章の回想録の一節を引用して終わることとする。

貧乏人は、公の問題に関しては、常に不利な立場にある。そういう人物が、立ち上がって、上司に対して、話したり、意見の手紙を書いたりすると、人々は尋ねる。「助言をしようとしているのは一体どのような人物なのか?」そして彼が一銭も持っていないことが知れると、自分たちの手に唾をはいて、おし返し、手紙など釜の焚きつけにしてしまう。だが、もしも金持ちが、話したり、書いたり、あるいは罵倒したりすると、ラクダの当歳子並の頭脳しかなくとも、背骨の曲がった見苦しい人物であっても、全市をあげてその言葉に耳を傾け、賢いと賛美するのだ。

ザ・ブラス・チェック、アプトン・シンクレア著1920年刊(邦題:真鍮の貞操切符、1929年刊)から

"The Brass Check" Upton Siclair 原書は1920年初版

日本語版は、早坂二郎訳、昭和四年(1929年)十二月六日 新潮社発行 (上記は拙訳)

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アメリカ版「蟹工船」ともいうべき?傑作『ジャングル』を1906年に発表した後の、ジャーナリズムの対応にうんざりして、彼は本書「The Brass check」を書いた。もちろん出版してくれる会社はなく、自費出版。著作権も放棄している。本文章の英語原文全文テキストはこちら

また、食肉工場で働く、移民たちの凄惨な姿を描いた、アメリカ版「蟹工船」『ジャングル』舞台を、アメリカから、日本に、食肉工場を、自動車工場に、リトアニアからの移民を、ブラジルからの出稼ぎ方々に変えれば、基本構造はそのままのように思えるのだが。詳細については、たとえば以下をどうぞ。『石油』についても、あげておこう。

なお、同じシンクレアによる、『石油』、最近アメリカで映画化されたが、換骨奪胎、到底見るきになれない代物。マスコミ記事で読む限り『蟹工船』の再映画化も、おそらくそんなものだろう。『蟹工船』への注目を逸らすような内容だろうと勝手に想像している。『蟹工船』はやはり、山村聡監督の旧作で見ろということだろうか。

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最後の部分に、やや不穏当な表現があるが、90年ほど前のアメリカの文章ということで、あえて、そのまま訳した。あしからず。しかし、マスコミ本来の仕事が、商品宣伝と、洗脳であることは、昔も今も、そして、未来も、変わるまい。テレビは、新聞よりも、洗脳効果、何桁も大きいだろう。「マスコミは社会の木鐸」であった歴史など本当にあるのだろうか?彼らが勝手に考え出した、単に販促目的の耳障りのよい念仏ではあるまいか。商業マスコミに期待などしてはいけない。問題点ずらしが仕事。考えるべき主題は、例えば安保・基地問題は、あつかわず、あるいは歪めて報じ、必要のない猟奇的な事件ばかり報じる。英語でいうRed Herring報道が彼等の使命。

金と手間をかけなければ、本当に必要な情報が、自然に流れ込んでくるわけなどない、のは自明だろう。

麻生首相が、一億円を稼いだ青年ゴルファーと面談し、クラブをもらった光景は、繰り返し報道される。その一方で、首相豪邸を見学にでかけた富裕ならざる人々のツアーが、警察の壁でガードされ、中途解散を余儀なくされ、逮捕者まででた事件の報道は見ない。気のせいだろうか?90年近くたっても、ジャーナリズムと権力の関係は同じ? 麻生豪邸渋谷ツアーがあえなく中断したあと、参加者の皆様、きっと同じ渋谷で上映中の古典アニメ「動物農場」を見に行かれたと思いたい。チェンジなどと叫ぶ連中がグルであること、くわせものであることを、はっきり描いた古典だから。原作者オーウェルは、ソ連共産主義など、くわせものであると言いたかったのだろう。ソ連なき今、アニメ(CIAが制作資金援助をしている)を見ると、まるで、「二大政党など、くわせものである」ことを表現しているよう。いわゆる「ブローバック」現象?なお、原作とアニメ、結末が大きく違う。是非、原作『動物農場』もどうぞ。そして、ついでに『1984年』も。

なんとも不思議なことに、大手新聞・テレビといった、マスコミを信じ、期待する方々が、本書刊行からおよそ90年たった今も世の中の大多数。「二大政党」政権交代、北朝鮮悪魔論(大悪魔アメリカの走狗としての小悪魔ではあるだろう)の信者が増えるばかりで、属国の度合いが年々ひどくなる。国民全員が、名作映画「トゥルーマン・ショー」の主人公になってしまったようだ。東京都、大阪府、千葉県の知事選挙を見ていると、日本は、マスコミのおかげで、すっかり、ナチス・ドイツ化しているとしか思われない。北朝鮮のことを笑えまい。喜んで、どちらかの、ファシストを選ぶ自由があるにすぎない。

小泉政権の経済政策のとんでもない本質をえぐりだすという素晴らしい活動をされた植草氏「痴漢」として、袋叩きになった。一方、小泉政権の経済政策を支えた高橋洋一氏、決して「窃盗犯」として袋叩きにならない。こちらは、植草氏と違って、防犯カメラに、しっかり写っていたという。なんとも不思議。ちなみに、高橋洋一氏、「脱藩官僚の会」発起人。(他の発起人メンバーは、江田けんじ氏、岸博幸氏ら。見るからに、なんとも...。岸博幸氏のブログ批判、噴飯ものではないか?こういう先生には習いたくないものだ。)

アプトン・シンクレアは、名作「ジャングル」を書いた時期、当時主要な「大本営広報部」装置であった新聞との様々な摩擦を通して、その実態を知るに至った。是非、英語原文なり、原文にそえられた、アメリカの教授による解説をお読みいただきたいもの。現代は、新聞以上に、テレビが、圧倒的・驚異的「体制維持」機能を発揮している。

名作映画「トゥルーマン・ショー」で、主人公の人生は、「テレビ」で国中に放送されていた。

テレビは、体制に批判的な学者、評論家はほとんど出演させない。タレントは、ほぼ全員が、むかしでいう「太鼓持ち」。太鼓持ち、滅びたのではない。タレント全員が太鼓持ちと化しただけなのだ。かねづるの言うがままにうごく。長寿番組、すなわち太鼓持ちタレント総出演番組。

そうした「太鼓持ち」代表を、喜んで選ばせる行事が、首長選挙。選挙のたびに、イソップの蛙の王様の逸話を思い出す。ごくまれに、時には、嬉しい地方選挙結果があったりもするけれど。

日本における、テレビ・システム導入と、アメリカによる属国化政策との密接な関係は『日本テレビとCIA』有馬哲夫著、新潮社刊で、克明に描かれている。

重箱の隅的な知識をつつく(失礼?)漢検ではなく、マスコミ・リテラシー検定、選挙検定こそが必要なのかもしれない。(英検の方が、個人的には、まだ意義深いのではと思う。)お上が、そうした啓蒙組織を作るはずは永遠にない。欺瞞するための組織なら、いくらでも作るだろう。

ハワード・ジンがいうように、「ひとつだけ覚えておくように。政府は嘘をつくものです。」

ハワード・ジン「歴史の効用とテロリズムに対する戦争」を語る

また、世論操作については、天才?バーネイズの暗躍のあとをたどる下記の本がお勧め。マスコミを駆使した世論操作の手法に間する基本図書。たまたま訳者と著者の会見と、あの911が重なるというのも、またすごい偶然。素晴らしい内容には驚かされるが、価格にも十分驚かされるのだけが残念。値段がせめて半額なら、もっと読まれる名著だろう。

スチュウアート・ユーエン 『PR! --世論操作の社会史』

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「天木直人のブログ」の2009年04月25日、
二枚舌を使った大前研一氏 他の中に、「テレビ業界にジャーナリズム精神は存在しない」という記事がある。政界、官界、テレビ界の、世襲癒着構造が書かれている。
テレビ、やはり「エリートの、エリートによる、エリートのための国民白痴化装置」のようだ。エリートというのは、買弁のカタカナ表記。

2008年7月 5日 (土)

ハワード・ジン: 帝国の終焉?(「民衆のアメリカ史」コミック版によせて)

ハワード・ジン、Tomdispatch.com. 2008年4月2日掲載。

イラクで、アフガニスタンで、そして自国内で、地球「唯一の超大国」の立場が、目に見えてほころびつつある。かつて「ダイエット版帝国」と宣言した国は、益々軽はずみであることが証明されたわけだ。かつて、ローマ帝国、あるいは、大英帝国等より偉大な国家、と呼ばれた国、地球上にこれまであったどの国より支配的な国家が、今や、自らの利益を求めて行動すれば、災厄をまねかずにはすまないように見える。最近のバスラにおける、イラク政府の攻勢は、もはや明かなのだが、これからまだまだ続く物事の最新例でしかない。

ともあれ、その帝国の運命が、ダイエット版であれ何であれ、トムディスパッチに於ける、ハワード・ジンの今日の主題であり、彼の名高いPeople's History of the United States(邦題「民衆のアメリカ史 )に対する新作の主題でもある。新刊書は、漫画という形式をとった、驚くべき画期的作品だ。漫画家マイク・コノパツキーの絵による、陽気な歴史図解は、インディアン戦争から、イラクの「フロンティア」に至るまでを扱っている(印象的な、ジン自身の人生の自伝的部分もある)。書名は、A People's History of American Empireだ。この珠玉の作品は、今日刊行される。

刊行の日を祝して、トムディスパッチは、ちっとしたオンライン・イベントもどきをご提供申し上げる。下記で、ジンがどのようにして、初めてアメリカ帝国について学んだのかについての、彼のエッセイをお読みいただける。ここをクリックすれば、二つの特別なおまけも、楽しんで頂ける。新刊書の絵をいくつか使い、誰あろう「ロード・オブ・ザ・リング」でアラルゴン役を演じた、ヴィゴ・モーテンセンのナレーションによる、アニメ・ビデオをご覧頂ける。(ロード・オブ・ザ・リング、第IV部:アメリカ版モルドール年代記、とでも、お考え頂こう) 同じページ、ビデオの下には、この新刊の自伝の部分、ジンの少年時代を扱った部分をご覧になれる。(それぞれの小さな画をクリックすると、該当ページが読める。) お楽しみいただきたい。本序文は、トムディスパッチ編集者、トム・エンゲルハートによる。

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本当は、肝心な下記本文がある。

翻訳は別ページ、「帝国か博愛か? 学校では教えてくれなかったアメリカ帝国のこと」。
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Empire or Humanity?

What the Classroom Didn't Teach Me About the American Empire
By Howard Zinn

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記事原文url:http://www.alternet.org/audits/81005/

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Metropolitan Booksによる、The American Empire Projectシリーズの最新刊。

日本については、ペリーによる開国と、第二次世界大戦中の、日系人の強制収容、広島、長崎の原爆が、触れられている。ただし、開国は文字のみ。コミック版とはいえ、なかなか読みごたえがある。全編がアニメにならないものだろうか?

American Empire Projectシリーズの本には、チャルマーズ・ジョンソンによる『アメリカ帝国への報復』、『アメリカ帝国の悲劇』、『Nemesis』(邦訳は未刊、本書をめぐるDemocracy Nowでの対話翻訳)や、チョムスキーの著書がある。

下記は関連記事翻訳。

ハワード・ジン「歴史の効用と対テロ戦争」

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

2008年4月 5日 (土)

戦争物語の制作では、ペンタゴンはハリウッドの強敵-『戦勝文化の終焉』あとがき

トム・エンゲルハート、University of Massachusetts Press刊。2007年9月22日投稿。

イラクにおける数々の見事なプロパガンダ技術から見て、トム・エンゲルハートの著書『戦勝文化の終焉』からの下記抜粋が説明しているように、アメリカ軍は、いかにして戦争を遂行しながら、同時にマスコミを打ち破るかを習得したのだ。

第二次世界大戦が始まって間もなく、陸軍参謀長ジョージ・C・マーシャルの依頼で、ハリウッドの監督フランク・キャプラがアメリカの戦争の目的を説明する公式プロパガンダ映画シリーズ制作を始めた。このシリーズには共通の題名「なぜ我々は戦うのか」がついていた。「なぜ」シリーズは、本来、純粋に情報を提供するものだった。そこにはいささかの疑問の余地も存在せず、ひたすら強力な答えがあるだけだった。

二十年以上後、1965年の血なまぐさい行き詰まったベトナム戦争の最中、アメリカ政府は「なぜ我々は戦うのか」シリーズに習って、「なぜベトナムか」という題名でもう一本の公式プロパガンダ映画を公開した。しかし共通点はそこまでだった。もはやそのような映画制作は、敵は攻撃的で野蛮だが、戦勝は確実であり、戦後の目標は明白だという、アメリカ的真理に肉付けすればすむという単純な話ではなくなった。それまでには、まさに何世紀も続く生まれながらの権利にほかならないものと思われていた、かつての戦勝というアメリカのお話の中深く、疑念が忍び込んでいた。

この映画も、最後には疑問符なしで登場したとはいえ、その頃には、あらゆる種類の疑問、疑念が、表面直下いたるところに存在していた。当時の国務省東アジア専門家ジェームズ・トムソン・Jr.による記事のおかげで、アメリカが一体何故ベトナムにいるのかをいぶかる疑問符が、アメリカ国民の心中に既に深く留められているのを認めるという問題が、リンドン・ジョンソン政権内部でも、まさに文字通り論じられていたことを私たちは知ることができる。彼はこう追憶している「広報活動の世界で、一番意気阻喪させられた仕事は、1965年9月の「何故ベトナムか」という題のホワイト・ハウス・パンフレット作成だった。自分の良心に対する決意として、私は戦い、破れた。題名に疑問符をつけ加えるという戦闘に。」

だが戦争が長引くにつれ益々顕著になる疑問符や疑念を避ける方法は皆無だった。ベトナム後、ペンタゴンは傷をなめながら、疑問符を売国的なマスコミになすりつけるキャンペーンを開始し(連中がアメリカの戦争に対して裏切り行為を働いたのだ)マスコミを服従させ、疑問符をアメリカ文化から追い出す計画を始めた。以下の抜粋は、「戦勝の文化」が息子ブッシュの時代に復活し、結局はイラクにおいて記録的短時間ですっかりだめになっていった姿を考慮に入れ、ペンタゴンのキャンペーンに焦点を当てて、改訂し再刊されたばかりの拙書『戦勝文化の終焉』の新たなあとがきの抜粋だ。

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今どき大衆に満足感を与えられるような戦争の話を作り出すのは、決して容易なことではないことが明らかになった。アメリカの戦勝についての永続する物語を造り出す為の何十年にもわたる計画的で、たっぷり予算をつけたベトナム後の努力にもかかわらず、ペンタゴンは依然として、目処のたたないまま苦闘していた。1982年、ベトナムの傷を舐めつつ、戦争が負けたのは、ほとんど売国的なマスコミ報道の影響によるものだと確信しながら、ペンタゴン幹部は、人里はなれた南大西洋で、イギリス軍がアルゼンチンに対して一方的な勝ち戦をおさめ、しかも同時に報道陣をも打ち破ったのを見つめていた。記者たちをほとんど海軍艦船に閉じ込め、非協力的なジャーナリストはおいてけぼりにして、イギリス軍(彼らの視線はアメリカ軍のベトナムでの経験を向いていた)は戦争報道の流れをほぼ完璧に支配した。これにひらめきを得て、アメリカ軍ももっと具合の良い戦争を見せる企みを始めたのだ。

レーガン政権1983年にグラナダという小さな島の侵略を命じて以来、アメリカの数多くの戦争と介入のそれぞれが、より新しい、より強力な、より技術的に高度な世次代兵器実験用の、軍産複合体のためのもう一つの生ける実験場だと言われてきた。例えば、事実上準核爆弾級のMOAB(massive ordnance air burst)つまり巨大燃料気化爆弾(略称をもじって「Mother of all Bombs-あらゆる爆弾の母」とあだ名された)は、フロリダの試験場からペルシャ湾地域へ急送されたが、イラク侵略で使用するにはわずか数日遅れた。この爆弾の最初の実戦テストは、アメリカの次のフロンティア戦争を待たねばならない。たとえそのフロンティアが、再び、地上の石油の中心地帯ということになった場合でも。

戦争のたびごとに、マスコミ報道という側面でも同様の実地試験工程が進行していた。ペンタゴンの最初の衝動は、イギリスの例に習って、単にメディアに対し、戦争を認めないこと、またある意味では大衆にたいしても認めないことだった。イギリスがフォークランド諸島で、記者たちの出番を無くしたように、グレナダ侵略では、ペンタゴンは記者たちを「一カ所にまとめ」て、沖合に置き、数日間彼らには出来事を見ることも、撮影も、あるいは報道も許さなかった。これはアメリカ人にとって何かわくわくするものとしての戦争の画を再建しようという企ての粗削りな始まりに過ぎなかったが(陸軍そのものが、全志願制の軍隊として、再び国民の尊敬を惹きつけるべく再建されつつあった)、強力な残滓的要素、つまりベトナム時代のマスコミに対する怒りと復讐心をも含んでいた。戦争報道は、一種の懲罰として扱われていたのだ。

パナマから、アフガニスタンに至るまでのそれぞれの戦争で洗練されたとは言え、ペンタゴンのやり方は、本質的には、一連の否定的な、聖書のような禁止命令に基づく防御的なもののままだった。例えば、テレビでは「遺体袋」を映させるべからず(アメリカ兵死傷者は、大衆に嫌気を起こさせ、国内の戦争支持を弱めさせる可能性があるので)。この過程で、遺体袋は改名され、アメリカ兵死者の遺体は、機能的に真夜中に本国へ空輸され、柩は注意深く記者やカメラの目に触れないところで下ろされた。もう一つのベトナム時代の禁止命令は、2001年アフガン戦争の司令官トミー・フランクス将軍の痛烈な言葉によれば「我々は死者数を数えない。」だった。この禁止命令はイラクが全面的な対反乱軍戦争になって以来の侵略後の日々でゆっくりと褪せたが、しばらくは戦争の双方側で戦死者は存在することを止めていた。

2006年11月になって、ブッシュ大統領は、保守派ニュース・コラムニストの集団に、いらだちを現して言った「[我々は]そういうことは言わないものだ。千人の敵を殺害したであれ、人数がどうであれ。それは起きているのだ。皆さんがそれを知らないだけだ。」問題は、彼がいらだちながら言ったように「死者数を数えるチームにならないよう意識的に努力しているのだ。」これは、ブッシュ政権がどの程度まで、ベトナムの有害な「教訓」と見なすものの反対を、依然として意識的に演じようとしていたかの、おそらく最高の立証だろう。

第一次湾岸戦争この受け身版では、記者たちは再びひとまとめにされて、ほとんど「戦闘」から引き離され、アメリカ本土のアメリカ人は、ロケットが青空の中へ発進するものやら、ノーズ・コーンの画面、ペンタゴンによって編集され公開された、狙ったイラク側標的の破壊といった華々しいイメージを見るだけとなって、ペンタゴンの報道管制のは頂点に達した。しかしある意味で、そのような報道には真ん中に穴が空いていたのだ。そして、それは依然として、ベトナムの壊滅的な遺産を象徴していた。結局、「戦争」活動は一体どこにあるのだろ? 戦勝文化の画面版にあった、全てのあのわくわくするほど英雄的な瞬間は一体どこにいったのだろう? 再び記者たちを現場から外した結果、制作物は奇妙に生気のないものとなった。戦争は、実際は空からの虐殺が、殆ど人目につかない場所で、計画どおりに起きていた。あたかもペンタゴンの連中がニュース映像を支配したかのようだが、彼等が放映できるものと言えば、軍事版スクリーン・セーバーでしかなかったのだ。

勝利が宣言され、これはベトナムとは違うことを証明する大規模な戦勝パレードが組織され、今度は兵士たちは、彼らが、ペンタゴンが、そして第一次ブッシュ政権がまさにそれに相応しい群衆の拍手喝采に迎えられて帰還するのだ。しかし、大統領や幹部たちの期待にもかかわらず、破れた「ヒットラーのような」独裁者軍内部では、いかなる策士の集団もフセインを打倒せず、戦勝物語は実に冴えないものになった。第一次湾岸戦争後、それまで同様、サダム・フセインはイライラさせるほど権力を握り続けていた。ロナルド・レーガン大統領の特使として、ドナルド・ラムズフェルドが1983年12月20日に握手をした相手、イランのアヤトラ・ホメイニに対するアメリカのかつての同盟者、そのためにアメリカの偵察衛星が、イラン-イラク戦争終盤、大量破壊兵器で毒ガス攻撃をする対象となるイラン軍の集結点を見つけてやった司令官は、明らかに、すぐさまどこにも消えはしなかった。

20年後、第二次湾岸戦争の「体制変革」戦争は、アメリカの第一次イラク戦争のもっとうまい改作になるように仕組まれた。今回、独裁者はノックアウトされるのだから、流布されるべき物語はたっぷりあるはずだ。しかしそういう記事を書く記者たちを、一体どのようにしっかり管理すればよいのだろう? 一つは、第一次と第二次湾岸戦争の間に、携帯通信技術は更に一段と大進歩をとげ、リアルタイムに近い形で、大いにブッシュ政権の気に障りそうな可能性がある記事や画像を送信する即席の独自報道に必要な全ての装置を、戦闘地帯にいる記者が携帯することがずっと簡単になる脅威をもたらしたことだ。(第一次湾岸戦争の際、自分の力で戦闘地帯にたどり着いた記者などごく稀だったが、彼らは軽蔑的に「単独行動者」と呼ばれたが、十年後息子ブッシュのワシントン幹部がアメリカ世界政策のエッセンスとして奉じる、あの「単独行動主義」と同じ用語だ)

元NBCニューズのチーフ、ルーベン・フランクは、2001年後半の報道の雰囲気を思い出してこう語った。「アフガニスタン戦争は[テレビ放送される戦争報道という点で]テレビ電話とよばれる装置のおかげで大きく前進していた。」ラップトップ・パソコンほどの大きさで、それより厚めの装置で、いくつかのスーツケースで運べるほど小さく(かさばるアップリンク用トラックも固定通信装置も不要で)、「数分で組み立てたり、分解したり」できる「自動車のシガーソケットにつなげ」られるものだ。フランクは、そのような技術で「新種のジャーナリストが出現しつつあった... 一部はカウボーイ、一部はエレクトロニクス技術者、一部は警察担当記者、一部は海外特派員という人々が」と言った。

ペンタゴンはこれと、メディアが、独自の戦争報道を、よりもっともらしく、魅力的にできそうな類の情報にアクセスできそうないかなる可能性も憂慮した。フランクによれば、アフガニスタン戦争時、アメリカ軍がそのような課題に対処しようとした、ちょっとした例は、コロラド州ソーントンの、商業的には最高の地球衛星写真を提供しているスペース・イメージズ社に「アフガニスタンや周辺地域の同社衛星写真の独占使用権の為に、一カ月190万ドル」支払ったことだ。軍自身の衛星の似たような写真は解像度が10倍高いにもかかわらず。そしてアフガニスタンの画像は禁止された。フランクが言っているように「この取引の本当の狙いは、他の誰もアクセスできなくすることだった。つまり、主として、マスコミが。」これは記者たちが戦闘地帯で独自かつ効果的に移動し報道する能力を妨害するための計画の一部にすぎなかった。

アメリカの戦勝物語を造り出す必要性と、高度技術で可能となった報道が決して独自にはされないことを保証する必要性から、新たな手法が生まれた。記者は今や、出征前の「新兵訓練所(ブートキャンプ)」によって軍と親密になってから、軍の部隊に「埋め込まれ」、無数の西部劇映画の中で、西部へと向かう開拓者の幌馬車の長い列と非常によく似た、あのブラッドリー歩兵戦闘車やエイブラムス戦車の車両集団から、部隊ごとに戦争をアメリカに伝えるべく送り出された。一部は技術的な必要性から生まれたのだが、記者を埋め込むというアイデアは、政権がサダム・フセインの非力な軍に対する戦勝にどれほど確信をもっていたかをも反映していた。かつては憎み、恐れたメディアからのリアルタイム画像の絶えざる流れという好機を活用できるほど確信を持っていたのだ。

映画制作と戦争遂行は今や深く絡み合っていた。制作ロケ地はイラクだ。監督はペンタゴンだ。ドーハ、カタール中央軍司令部の戦況ブリーフィング用25万ドルセットに制作スタッフは腰を据え、アメリカ人は、まさにそうあるべき姿の、昔栄光の日々に画面に映された通りの、わがアメリカ軍勝利の前進を見るというわけだ。

侵略を開始してから、様々なイラク人がアメリカによる解放を歓迎するのを拒んだり、一時、南部で泥沼にはまりそうになったりするなど、ブッシュ政権には都合の悪い瞬間も何度かあったが、アメリカ軍は、実際に重大な死者なしに、三週間でバグダッド陥落に成功した。サダム・フセインは消え失せた。彼の政権は最早消滅した。イラク軍は帰省した。そして彼らの物語作りのあらゆる夢が実現したかのように見えた。おそらくペンタゴンの即席映画制作の極みは、所属部隊がナシリヤ付近の間違った交差点で曲がり、待ち伏せ攻撃を受けた19歳の一兵卒ジェシカ・リンチの救出だった。部隊のうち9人は殺され、彼女は捕獲された。8日後、彼女がイラク人医療関係者による治療を受けていた病院に、暗視カメラを装備したアメリカ軍特殊部隊の兵士たちが到着し、救助の場面を写し、リアルタイムでドーハの中央軍司令部に送信し、そこで映像が編集され、放送された。結果として、本当のアメリカ人の英雄(ヒロイン)と、本土でのマスコミによる夢のような愛国主義狂乱が生まれ、ジェシカ・シャツやその他一連の身の回り品まで現れるに至り、あるNBCの週の番組では、彼女の人生と「救助」に焦点をあてた。

ジェシカ・リンチの物語ですらも、バグダッドで引き倒されたサダム像や、サダムの大量破壊兵器の膨大な兵器庫といったお話同様、すぐにぼろぼろになった。あらゆるわくわくする詳細が欠如している非英雄的な方の話、リンチの有名な銃創あるいはナイフ傷、イラク人捕獲者による彼女への虐待とされるもの等が、文字通り全速力で画面に躍り出た。大いに喧伝されたペンタゴン版物語を、リンチ自身の話をまとめた本『私は英雄じゃない』で事実上否定する頃には、もう手遅れだった。世間はどの版にも興味を失っており、彼女の話は雲散霧消し、本はあっと言う間に売れ残り値引き本カウンター商品になった。

これは、カメラがいくらハイテクであれ、あるいはテレビ装置が如何にドラマチックであれ、その場で神話を造り出すことにまつわる問題の一例にすぎない。第一次湾岸戦争では、ペンタゴンは、各放送会社から視聴者を奪うためCNNによって使われた毎日24時間週7日のニュースという新現象に真っ正面から挑んだ。当初の両者の出逢いは、この初期段階でさえペンタゴンが勝利者であるかのように見えたかも知れないが、誰もが知る通り画像は往々にしてあてにならない場合がある。第二次湾岸戦争迄に、すぐに気の散りやすい、年中無休のケーブル・ニュース・システムを支配し、注意を惹きつけておくという問題は十分に認識されていた。しかしそうこうするうちに、予期していなかった新たな要素が現れた。現地にカメラマンと記者のチームを持つ、中東におけるアル・ジャジーラの成長だ。突然に、ブッシュ政権やペンタゴンの力が及ばず、しかも、彼らのやり方によるお話作りに有害な、新たな一連の画像とメッセージを提供しはじめたのだ。両面からのアル・ジャジーラ恫喝で、一つはアメリカ企業の幹部からカタールの支配者(ネットワークを設立した、忠実なアメリカ支持者)経由、もう一つはアル・ジャジーラの施設、まずはカーブルで2001年に、次に2003年のバグダッドという本当の攻撃によって、報道の性格を変えさせようとした企みも、役に立たないことが明らかになった。

一方、「一日36時間/週7日」働き続け、益々多くの読者を惹きつけている、全く制御しようのない政治インターネットの成長が、もう一つの問題であることが明らかになった。インターネット上の様々な反政府的サイトやブロガーは、ブッシュ政権による英雄的なお話が現れるやいなや、脅しに屈した大手マスコミであれば、まずやろうとしないような形で、熱心にそれをぶちこわそうとする。例えば、世界中、そしてあらゆるアメリカの新聞で、瞬時に広まった、憎むべき独裁者サダム・フセインの銅像を、バグダッド・フィルドス広場で歓喜に沸くイラク人たちが引き倒すわくわくする英雄的な大写しの写真。この画像は、間もなくウエブ上で台無しにされた。その群衆のロング・ショットでは、群衆の人数がごく少数で、アメリカ軍によって組織され、指揮されていたことが見え見えだった。

適切な説明がついた、こうした対抗的な写真は、瞬時に政治インターネット中を巡り、ゆっくりと主流世界へと近づいて行った。政治インターネット・サイト、インフォメーション・クリアリングハウスが、政権が極めて熱心に人目に触れぬようにしてきた国旗で覆われたアメリカ人死者の柩の画像を最初に掲載した。ブッシュ政権が2002年に実際どれだけイラク攻撃に熱心だったかを示すイギリス政府内部の書斎からもたらされた秘密文書、ダウニング・ストリート・メモが、イギリスの新聞に漏洩され掲載された。当初アメリカ合州国の全ての大手新聞に無視されていたものが、アメリカ「上陸」を果たしたのは、政治インターネット上でだった。(オリジナルのダウニング・ストリート・メモが、アメリカ合州国で初めて記事になったのは、新聞ではなく、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスであったという事実が、主流マスコミの状態を雄弁に物語っている。)この年月、政治インターネットは現場にいた。ブッシュ政権による戦争前の嘘やWMDという白昼夢から、アフガニスタンにおける元NFLフットボール選手パット・ティルマンの「誤爆」死という真相を隠すためペンタゴンがでっちあげた英雄談に至るまで。対象範囲と読者数は限られており、ネットが、そうした現実に対する説明を主流にもちこむ力は限られているとは言え、確かに最新版の戦勝文化を着実に台無しにする一つの要素である。

トッド・ギトリンがメディアの「奔流」と呼んだ、我々の騒々しい文化宇宙の中では、遅かれ早かれ(大抵は、早かれだが)ほとんど何事についても、戦争と政権も含め、押し流されてしまう。バグダッドの国立博物館のように、話題や画像、目を惹きつける筋立て、生活の中で画面や音に釘付けにする番組によって、我々の世界は繰り返し強奪されてきた。2004-5年までには、メディアに対して、イラクについて何か「良いニュース」記事を造り出してくれ、と荒野での絶叫を続けてきたブッシュ政権も、ドナルド・ラムズフェルドの記憶に残るあの言葉、いつも「そういう事はおきる」略奪者の天国で、あるいは、再建をするよう命じられている連中自身が略奪者であるような状況の中では、何か永続的なものを作り上げるのが容易ではないことを発見した。瞬間という文化の自由市場においては、戦争の中から永続する神話を創造することは不可能だ。次の出来事まで話をもたせることすら困難なのだ。

Tomdispatch.com編集人のトム・エンゲルハートは 、American Empire Projectの共同設立者で、The End of Victory Cultureの著者である。

記事原文のurlアドレス:www.alternet.org/waroniraq/62951/?page=entire

両者とも敗戦国、勝者なし-『戦勝文化の終焉』まえがき

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2008年4月 1日 (火)

両国とも敗戦国、勝者無し-『戦勝文化の終焉』まえがき

[トム・エンゲルハート著『戦勝文化の終焉』2007年全面改訂版]まえがき

TomDispatch.com記事

1989年11月9日と2001年9月11日。前者は、ベルリンの壁崩壊最初の瞬間、『戦勝文化の終焉』刊行の6年前のことだ。後者は、本書刊行から6年後に起きた、19人が関与した民間ジェット機ハイジャックと、ニューヨーク市にあった二つの壮大なタワーの崩壊だ。11/9。9/11。この二つの日付の間に、アメリカの勝利と敗北についての考え方には顕著な浮き沈みがあった。

1991年、レーガン風表現で言うところの「悪の帝国」、ほぼ半世紀にわたるアメリカの敵ソ連が、あっけなく消滅した。ほとんど最後の瞬間まで、ワシントンの高官たちは、ソ連は永遠に続くものと考えていたので、ソ連が消滅した時、彼らのほとんどが最初はそれを信じられなかった。しかし間もなくこの出来事はアメリカ最大の勝利として歓呼で迎えられた。アメリカは冷戦に「勝利」し、史上これまで無かったような形で、本当の勝利を得たのだ。四十数年にわたる巨大な闘争は、超強力な敵の往生に終わった。

本書は、あの「戦勝」後に書かれた。広島上空での原子爆弾爆発の瞬間から、ソ連の崩壊までという、ほぼ半世紀の独特な時代は、歴史として、また(私自身が)生きた体験として振り返るべき最初の歴史時期の一つだった。私は自分がその中で育った世界の探検もした。(これからお読みいただく本には、1950年代と60年代の子供時代はどんな感じだったかについて色々書いてある。) ある種の驚異の念、当惑さえ持ってそうした。なぜなら、私の世界と人生を元気づけてくれた多くのものも、1990年代初期の日々には、私にとってすっかり終わったことのように思えたからだ。そして私は、何が起きたのか、それは何時、何故なのかに思いを巡らせた。

今気がつけば、現世紀末では(まだ)さほど明らかではないにせよ、アメリカは、不滅アメリカ至上主義と反対の側の、不可解なずっと短い期間の瞬間にある。最初、本書は冷戦終結からジョージ・W・ブッシュのぞっとする登場までの小休止期に刊行されたので、しかるべく書き改めた。

『戦勝文化の終焉』が刊行された年、アメリカ合州国は、強国として奇跡のように無類で、取るに足らない世界諸国上にそびえるものと見なされていた。アメリカは、誰も想像しなかったほど最強で、最もハイテクな、最も斬新な軍を有する「世界の保安官」 地球「最後の」超大国、あるいは最初の「超強大国」だった。海外の軍事基地ということになると、アメリカのグローバルな「フットプリント=足跡(占有面積)」は、ペンタゴンの官僚たちが間もなく使うようになった用語だが、それほど巨大なので、複数形では語れないほどだった。アメリカ合州国は、一時に片足しか地上に足を下ろす場所がないほどの巨人だった。当時のアメリカ戦略思想家たちが、やがて、宇宙の、そしてその下の俗人たちの絶対的軍事支配という最後の「宇宙のフロンティア」を夢想し始めたのも無理はない。(アメリカのフロンティアという夢は、間もなくお読み頂く通り、本書において多くの部分を占めている。)

だが実に奇妙なことに、アメリカ合州国には並ぶものがなく、敵無しなのに、小人のような悪玉連中(間もなく「ならず者国家」と呼ばれるようになった)世界の中で困惑しているようだった。戦勝を祝う美辞麗句にもかかわらず、当初のアメリカの対応は、ある意味、肉親が逝去した後に落ち込むような、困惑と麻痺の状態だった。国家、経済、そして連邦予算のペンタゴン化抑制についてのおしゃべりが、束の間マスコミに現れた。「平和の配当」が無造作に口にされてはいたが、何事もおきなかった。その間も、巨大な核戦力が任務もないまま存在し続けていた。「相互確証破壊」という長い狂った日々の後、ミサイル地下発射台は満員のままで、誰もそれに言及しようとしなかった。

第一次湾岸戦争から2001年9月11日の攻撃までの、冥界のような年月の間、不滅アメリカ至上主義の爆発は、不安と自信喪失、怒り、恨みで意見を異にする政治、かき乱されたアイデンティティとカルチャー戦争で、動揺していたのだ。そして2000年、「国造り」より「思いやりのある保守主義」のジョージ・W・ブッシュが大統領に就任した。彼と共に男性たちの一団(それに若干の女性たち)が登場したが、彼等の思考は冷戦中に形成されており、アメリカの軍事力という考えにすっかり幻惑されていた。彼等はそれまでの十年間、ある種のグローバルな遍在と、偉大な冷戦を征服した国家にふさわしい全知と呼べるかもしれないものを夢見ていた。

9/11攻撃が起きると、まさに同じ高官たちが、究極の大惨事のように思われた衝撃から、驚くべき速さで脱け出し、脅えて精神的外傷を与えられた国民をおどして、アメリカ合州国を地球上の新たなローマにするはずの(ジョージ・W・ブッシュのネオコン支持者の一部がそう考えたがっている)一連の戦争、あるいはリベラルなマイケル・イグナチェフが2003年1月、イラク侵略のわずか一月前に書いていたように、「低カロリー版グローバル帝国」へと追い込んだ。その過程で彼等は、本書の焦点である、不滅アメリカ至上主義という昔からの伝統に頼ることとなった。これは私が「戦勝文化」と呼ぶものであり、それはベトナム戦争の終結までに、本質的に瓦解していたのだ。彼等は、新たな、何世代も続く「邪悪な」敵に対するマニ教的な善悪二元論の闘争における「戦勝」を約束しながら、その言語とイメージの多くを回復させたのだ。この戦争は、次の冷戦、あるいは代案として「第三次世界大戦」、あるいは「第四次世界大戦」でさえあり、更には大統領が呼ぶ通り「対テロ世界戦争」であるべきはずだった。この戦争は、アメリカの「フロンティア」(それがたまたま地球上の石油の中心地に一致したのだが)と、それにつきものの敵を取り戻してくれるはずだった。

大統領と彼の最高幹部らは、この時期、冷戦間の前任大統領たちより、頻繁に、執拗に(時として、一つの演説で10回ないしそれ以上)勝利を約束した。あれほどかたくな、かつ非常に頻繁に主張し続けることで、おそらく彼等は皆ある種の懸念を示していたのだ。結局、冷戦後世界において(前世紀の朝鮮戦争とベトナム戦争時代にあったように)、戦勝は間もなく、新たなローマの指導者にとってさえ、並外れて移り気な概念であることがわかった。ベトナムで戦った歴史学者のアンドリュー・バセビッチが、アフガニスタンとイラクにおけるブッシュの戦争を考察して言っているように、「東は西洋式戦争法の謎を解いてしまった. . . . アラブ人は今や、特に自分たちの縄張りで、自国民中でおきるあらゆる争いについて、アメリカの戦勝を拒否する能力を有し、また能力を有していることを自覚している」

この時代の歴史が書かれる時に、おそらくより特筆すべき変化は、強大な帝国が、地上のほぼどこにおいても、自分の意志あるいは自分のやり方を、当たり前のように他国に強いることができなくなったことだろう。ソビエト連邦共和国が蒸発して以来の事実として、力の指標としてこれまで最も認められていたもの、とりわけ軍事力が疑問視されるようになり、その過程で、戦勝が否定されたということがある。今現在こうして勝ち誇っていても(アメリカ軍の将軍たちはサダム・フセイン宮殿の一つで大理石テーブルの向こう側に座り、にっこり笑っていた)、明日は、それさえ、まず確実に(道端に仕掛けられた爆弾が爆発し始め、自動車を使った自爆テロが増えて)消え去るのだ。

戦勝がアメリカから去りゆく速度のもう一つの尺度として、「新たなローマ」といった言い回しや、右翼評論家チャールズ・クラウトハマーがタイム誌で語った「ローマ以来」のいかなる世界的大国より、アメリカは「更に優勢だ」という言説の類は賞味期限がかなり短かったことがある。イラク侵略は2003年に行われ、2004年始めには、アメリカ合州国をローマになぞらえることも、パックス・アメリカーナがパックス・ロマーナになれそうな見込みも消滅した。同様に、本来のアメリカ「戦勝文化」は200年ほど続いた一方、崩壊するのにほぼ半世紀かかり、その続編も、イラクにおいてわずか数年で破壊され黒焦げとなり、ブッシュ政権は自らの帝国プロジェクトの瓦礫の中に立ち尽くしている。この部分の物語については、新たなあとがきで取り上げ、第一次湾岸戦争から昨晩遅くまでの、不滅アメリカ至上主義の終焉物語について扱っている。

2006年9月11日迄には、戦勝文化は再び屈辱を受け、アメリカ合州国が新たなローマとはほど遠く見えるようになり、二カ国とも冷戦の敗者だったのではなかろうかと評者たちが思案しても許されるようになったのかも知れない。前世紀後半における二大強国のうち、より弱い方のソ連が単に最初に崩壊しただけで、戦勝という美辞麗句と自画自賛の花輪で囲まれたアメリカは、手を振って別れのあいさつすることもないまま、ゆっくりと出口に向かっているのではないだろうか? 9/11後の日々が再検討される頃には、世界的軍事優勢という野心的な計画を追求したブッシュ政権幹部は、そうとは気づかずに、アメリカ帝国の衰亡に対し、下り坂で決定的な後押しをしたのだと見られるようになるのかも知れない。

そして私たちがアメリカ戦勝文化の「余生」中で暮らし続けている今、すっかり書き改められた本書は、戦勝文化の容赦ない終焉を回顧するものとなっている。

本書について(英語記事を)読むには、ここをクリック。

記事原文urlアドレス:www.tomdispatch.com/p/victory_preface_2007

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同著者による、残り半分(あとがき)は下記。

戦争物語の制作では、ペンタゴンはハリウッドの強敵-『戦勝文化の終焉』あとがき

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